昭和57年4月9日朝のご理解
                           入力者  大坪寿子

御理解第20節
此方が天地金乃神よりおかげを受けておることを話にして聞かすのぞ。疑うて聞かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。また時を待っておかげを受けるがよし。めいめいに子を持って合点せよ。親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。

(音声不良。途中から)は、おかげを受けると言う事の話が非常に少なくて、あのー、まー、ほとんどが、あたくしは思うのに、お徳を受ける。天地金の神様が、氏子信心しておかげを受けてくれよといわれる、そのおかげとは、お徳を受けてくれよと言う事なんだという風に(説きますですがねー)。しかしどうしても、そのー、お徳の受けられる信心を、させてもらわなければなりません。
 えー、宮崎の古谷さんが、今ご本部で修行中です。竹内先生の奥さんのお父さんになります。昨日、おー、まー、本部の方から宮崎の方へ電話がかかってまいります。その電話の中で、今朝からこういうお知らせを頂いたから、合楽の親先生にお届けをしてくれということであったらしい。というのは、うーん、熟し柿、熟しですね、柿の熟したヤツです。熟しが、こうバックにいれてある、そのー、お知らせを頂かれてたと、こういう。えー、ねー。今の例えば金光教が人情教とか、まー、道徳から、まー一歩もでてないという人がありますが、あたくしもそう思います。やはりだからそういう意味で信心のない人たちに、まー、評判がいいのですけれども、ほんとのだから助かりにつながらない。やはり合楽で言われる、超常識の世界とか、まー、超道徳とか、まー最近では、超合理的とかいうような、ですから、信心の薄いものやら、ないものやらの場合は、合楽はおかしいことをいう。難しい事を言うと。ね。
 昨日、うーん、佐田先生、いつも子供抱いてここにお届け来るんですけれども、昨日は子供抱いてきてなかった。で、そのー、元気にしとるんだけれども、熱がある。それで、38度何分、熱ですからと、こういうお届けであったから、わたくしが申しました。まちーっと出ると、39度でおかげいただいっとばってんねーと、あたくしが申します。こげなこというっ先生ち、やっぱおらんと思うですね。さ、38度何分、まちーっと高かったらよかっちいうわけ。ね。言うならば、39度あると、サンキュウーでおかげ頂くとじゃけれどもという意味の、まー、含ませて、まー申しましたことでした。そして研修のときに申しましたことですけれども、ね、あたくしはそんな無茶なこという、例えば、第一ねー、体温計が邪魔になるよと、わたくしが申しました。「はー、熱があるごたー、(?ちょうー)計ってみよう。はー38度何分ある」と、もうそこにね、計っちゃいけないとじゃないけれども、そこにね人間は、神経もちですから、ね、神経を使いますから、ね、やはりあわてわせんにいたしても、ね、えー、やっぱ、あー、ほんとにおかげの受けられると言うか、お徳の受けられる道をそこで、間違えるようですね。
 新田原の、おー、松雄さんという熱心なご信者さんがおります。娘さんが名古屋におります。先だって電話がかかってきた。ね。昨日からずーっと、39度の熱がつづいとります。合楽にすぐお届けをしてくれと、こうだった。「あー、そりゃー、おかげ、おかげサンキュウー、サンキューでいただかんの」っちいうたっち。2日間39度がつづいとったから。「もうほんとうに、お母さんからあの一声聞いただけで、目が覚めとったっちお礼のお届けがございました。」もうその辺のね、そのー、頂き方っていうのは、実に微妙です。えー、ですからそういうこというなら、やっぱり非常識であるし、ねー、えー、あたくしの言うとが間違いのようだけれども、わたくしは、ね、お道の信心によって、おかげを受けて、信心しておかげを受けてくれよということは、お徳を受けてくれ。これはもう信心をしなければいただけんのですから。なら病気をする。お医者さんにかかる。と、ね、それでやっぱ、たくさん実際助かってますから。それが早道のようでもありますけれども、あたくしどもは、その病気なら病気を通して、お徳を頂こうと言う、姿勢、構えをね、作る事を合楽では説きますですね。その事を通して力も頂こう。または、お徳も受けようという、生き方からくると、いまあたくしが申しますよう、そのさだ先生ところのこまかとの、あれじゃないけれどもね、ね。また38度その熱があるなら、なおさらここに連れてこじゃこて。あたくしは必ずここに、あのー、あのー、赤ん坊を連れてきますと、手を握ってから、こうやっていわゆる、するんですから、もうそれこそ、もうね、例えばあー、38度なんぼも熱があっても、親先生手を握ってもらえようなるぐらいな、いうなら一つの信念を作りたいですね。はい。ね。それにはね、やはりその、神様の、いうならお心が分かり、ここでは、「親の言う事でも、子供がきかんなら、親でも仕方がない。」というわけですけれども、あたくしの場合はいつも、その親が子を思う情念というものは、どこの親だって同じなんです。ね。親が子供がかわいい。だからそこをもうひとつ、合楽の場合は超えてですね、その親が子を思うその情念をもって、子供が親を思えというのが、合楽の信心です。親神様の心が分かって、いよいよ親神様のお心に沿い奉りたいと。ね。親が子を思うのは、まーいうなら当然のような、まー当然ですね。けれども、子が、その親が思う情念をもって、親の事を思うたら親不孝は出来ませんね。ね。親の心を分かろうとしない。ね。親の思い、ね、親に喜んでもらいたいとか、安心してもらいたいとか、ちおうその、情念がかげておる。信心とはそういうかげておるところを、ね、頂けれる。わたくし、思いますのに、合楽の信心の、まー、あー、いわゆるおかげのきっかけと言うのは、もうやむにやまれぬ思いで、親に孝行したいの一念が、もう自分の力では出来んのだ。神様のおかげを頂かなければでけんというところから、あたしは、あのー、はじまっとるという風に思います。ね。
 昨日も秋永嘉郎さんたち夫婦が、あー、昼ごろ、もうお参りしてきまし、午後の奉仕のときでした。で今日は母の帰幽日ですから、というていろいろ、おばあちゃんが好きであった、うーん、ものやら、あー、タバコが大変お好きでしたから、タバコをあのー、たくさんお供えして、えー、まー、玉ぐしを上げて帰られた後に、あたくしが、あー、ご霊前に出てから、あのー、お礼を申させていただきよったら、「天地金乃神は願いの神だ」とこう、このごろから頂いたが、「天地金乃神は情念の神だ」ということを昨日頂いたです。ね。息子達夫婦が、帰幽日に、いうならば、お供えをした。そしておばあちゃんが好きであった、特にタバコが好きであったからと。ね。大体秋永先生ところが本家ですから、もうほんとのほうで、ちゃんと御霊の事は、えー、やっていておりますから、ねーもういうなら分かれ屋ですから、そうせんでもえーけど、そこがひとつの情念。嘉郎さんの信心だと思います。しかも夫婦でそのおばあちゃんの帰幽日、11年になるそうです。ね。ですからあたくしは御霊の世界のことはね、実際は分からんのですよね。御霊が喜ぶと、あー、御霊が喜びなさると、こう、喜びなさろうであって、ほんなことわからん。けども、生きても死にても、天と地はわが住処と仰せられるのですから、生きとる間も金光様ならば、死んでからもやっぱ金光様だて。天地金乃神様のおかげを頂かなければでけんのだ。そこで、天地金の神様のお心に叶う、ね、信心をさえてもらう。そこから御霊もまた、天地金乃神様の特別のおかげを下さる事が出来ると思うです。ね。子が親を思うその情念が、御霊がどうかわからんけれども、天地金乃神様が感動まします。いうなら、子が親を思う情念なんです。ね。ここだけははっきりいえますよね。あたくしどもが実際おかげを受けております事実からいうてもです、天地金乃神様の御心を動かせれるだけの信心、天地の神様が信心しておかげを受けてくれよ、お徳を受けてくれよと言うその内容は、親が子を思うじゃなくて、子が親を思う情念に、よるんだと言う風に思います。ただそれを、ならおかげというのを、ただご利益というような信心で、まーいうなら常識的とでも申しましょうか。ね。の生きから脱しない信心では、おかげは受けても、お徳は受けられないということです。ね、今の例えば、あー、仕事でも、医学の事やらが、やっぱ勉強してますよね。本なんかを見て。「こんなときなんかは、こげな養生法がある。こんなときにはこげなとふう」と。ね。けれども、もう御神米でおかげ頂く。お神酒さんでおかげ頂く。ご神水ば頂きなさい。という風に言い切るとね、やはり非常識に聞こえるわけです。ね。
 昨日その、本部で修行中の、おー、古谷さんが頂いておられるのもです、今のままでは、今度御本部でなんか研究生として、もう半年くらい残ってくれというて本部に言われるから、残られる、そういう試験を受けられたと言う事でございましたが、ね。えーなかなか人物がいいし、もう年配でもありますから、ね。まー本部の方でも、そして白羽の矢を立てられたわけでしょうけれども、今のままではおかげの世界がわかっても、お徳の世界は分からん。私どもが一生、なら(?のうなし)ただおかげだけで終わると言うのは、それは熟しで終わるようなもんじゃないでしょうか。ね。おいしいこたおいしおい。けれどもその残されないでしょうが。合楽で言われるように、ね、それこそ、まー、「渋柿が皮を剥かれてつるされて。」ね。それがひがきに干し柿ともなって、初めてそれを、ね、あの世へも持っていけるというお徳。残しておけれるのです。そこにはね、いうなら皮を剥くとか、つるされるとかということが、苦しい事ということじゃないです。子が親を思う情念なんです。そこに親神様の思いが分かったら、それに沿わなければおられないし、親神様に喜んでもらう、安心してもらえるあたくしにならなければあいすまんことになってくるです。その情念が強くなってくる。これが神様を分かり、神様のご真意似を沿うから、頂けれる。ね。だから、ただ常識的な、信心のないものでも思うようなことを思うておったりしておったんでは、おかげはね、お取次ぎいただいて、「どうぞどうぞ」というから、おかげ頂きますよ。それこそ熟し柿のようなおいしさと言う事は、一生頂ましょうけれども、ならそれを残しておくと言うことは出来ない。あの世にも持っていけれると言う御神徳。は、やはり、ね、皮を剥かれてつるされて、渋がぬけていくという、それを今日は皆さんに。親でも言う事をきかん子は仕方あるまいがと言う、風にここでは説いてございますけど、合楽の場合は、それをいつも、いうならもう一つ向こうの方を説くのです。親が子を思う情念。そういう情念をもって、親の事を思え。親神様の心が分かれ。そしてその心に沿い奉る生き方をせよと。ね。そこにはね、いよいよ神様を信じて疑わない、必ず実験をすれば実証が生まれてくる。「なるほどー」と言うもなのなんです。ね。それがいよいよ神様を信じて疑わないということにもなってくるし、それがいうならば、ね、信じ信じられる仲。神、神を信じる氏子は多いけれども、神から信じられる氏子が少ないと仰せられる、その少ない方の、信心を頂けと言うのが、合楽理念だと思うです。ね。神様を信じるだけではない。神様に信じられるあたくしになると。ね。神様はいうならば、そう生き方に、なんてでしょ。それこそホロッとなさるのじゃないでしょうかね。ね。子が親を思う情念。それがやむにやまれん。ものになっていくときに、ね。いわゆる神様のお心に沿い奉る事がでける。ね。親が子を思う情念。これはあたしはおかげの世界だと思う。ね、それと同等に、この親をまた思うと言う情念をもって、なさせてもらう信心こそ、ね。信心しておかげを受けてくれよといわれる、そのおかげが、お徳を受けてくれよという、ことだという風に思うんです。ね。ですから合楽で信心させてもらいよっと、少しは非常識な、ね、場合には道徳のような、感じさえせんことがないじゃありません。ね。けれども実際頂きぬいてみると、それがいうならば、お徳を頂く道であると言う事が、わかってくる。ね。いよいよ神様を信じて疑わない。そこからまた、神様から信じられる氏子として、お取立てをいただけくことが出来ると思うですね。どうぞ。